考題索引

第十一章だいじゅういっしょう 明治前期めいじぜんき

第一節だいいっせつ 文明開化ぶんめいかいかあゆ

(一)和魂洋才わこんようさいから「私欲しよく」の解放かいほう

和魂洋才わこんようさい かつて中国ちゅうごく文化ぶんかれながら日本にほんこころつづけた、いわゆる「和魂漢才わこんかんさい」の心構こころがまえとおなじように、幕末ばくまつ日本にほん知識人ちしきじんたちは、科学技術かがくぎじゅつにおいては西洋せいようまなぶべきだとする一方いっぽう道徳どうとくめんかんしては欧米おうべいを「私欲しよく」(みずからの利益りえき最優先さいゆうせんとすることをす)のくになし、「公義こうぎ」(聖賢せいけんおしえをまもってくにのためにちからくすことをいう)のくにである日本にほん優位ゆうい主張しゅちょうしていた。これを「和魂洋才わこんようさい」という。つまり、積極的せっきょくてき西洋せいようあたらしい技術ぎじゅつ導入どうにゅうしていったが、思想しそう文化ぶんかなど、精神面せいしんめんまでれることには抵抗ていこうかんじていたのである。

私欲しよく」の解放かいほう やがて、西洋せいよう科学技術かがくぎじゅつとその思想文化しそうぶんかがもとより表裏一体ひょうりいったい関係かんけいにあることがかり、さらに欧米諸国おうべいしょこく先進国せんしんこくになれたのもその文化ぶんかすぐれていることにもとづくところがおおいとかんがえられるようになった。こうして明治維新めいじいしん後、西洋せいよう技術ぎじゅつとともにその精神せいしんをもれるという、「文明開化ぶんめいかいか」の気運きうんさかんになってきた。 これまで批判ひはん的なものとなっていた西洋せいようの「私欲しよく」については、「」と「よく」にけられるかたちで、「」の部分ぶぶんは「忠君孝親ちゅうくんこうしん」というふる封建期ほうけんき愛国心あいこくしんを、「自主愛国じしゅあいこく」というあたらしい近代国家きんだいこっか倫理観りんりかん発展はってんさせたのにたいし、「よく」の部分ぶぶん物質ぶっしつ重視じゅうし立場たちばから、資本主義経済しほんしゅぎけいざいたせるものとなった。

そのれいとしては、国会こっかい開設かいせつもとめる板垣退助いたがきたいすけ(1837-1919)らによる自由民権運動じゆうみんけんうんどうや、人間にんげん物欲ぶつよく文明開化ぶんめいかいか要素ようそとする福沢諭吉ふくざわゆきち

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学習ポイント
  1. 文明開化ぶんめいかいか様相ようそう
  2. 国旗こっき国歌こっか由来ゆらい
  3. 近代文学きんだいぶんがく成立せいりつ
  4. 美術びじゅつ音楽おんがく発展はってん

(1834-1901、幕末明治ばくまつめいじ思想家しそうか教育家きょういくか)の主張しゅちょうなどがげられる。

1874(明治めいじ7)ねん板垣退助いたがきたいすけらの民撰議院設立建白書みんせんぎいんせつりつけんぱくしょたんはっし、人民じんみん権利けんり自由じゆう拡大かくだい目標もくひょうとした一連いちれん政治運動せいじうんどうおこなわれた。福沢諭吉ふくざわゆきちは『西洋事情せいようじじょう』や『脱亜論だつあろん』などをいて啓蒙思想けいもうしそうかたわら、1868(慶応けいおう4)ねん江戸えど洋学塾ようがくじゅく慶応義塾けいおうぎじゅくげん慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく前身ぜんしん)と改名かいめいし、教育活動きょういくかつどうにも尽力じんりょくした。

(二)啓蒙思想けいもうしそう

明六社めいろくしゃ 明治政府めいじせいふ欧化政策おうかせいさくすすめていくのに並行へいこうして、民間みんかんにおいても欧米おうべいあたらしい思想しそう学問がくもん紹介しょうかい提唱ていしょうされるようになった。1873(明治めいじ6)ねん、アメリカから帰国きこくした森有礼もりありのり(1847-89)によって明六社めいろくしゃ結成けっせいされ、演説会えんぜつかい機関誌きかんし明六雑誌めいろくざっし』を中心ちゅうしん啓蒙的けいもうてき言論活動げんろんかつどう展開てんかいしていった。1875(明治めいじ8)ねんすえ解散かいさんされたが、啓蒙活動けいもうかつどう先導者せんどうしゃとしてあたらしい文化ぶんかもとめる当時とうじ知識人ちしきじんたちにおおきな影響えいきょうあたえた。

一方いっぽう、「てんひとうえひとつくらず」と人間にんげん平等びょうどういた福沢諭吉ふくざわゆきちの『学問がくもんのすゝめ』(1872)をはじめ、民主主義みんしゅしゅぎとなえてのち自由民権運動じゆうみんけんうんどう発展はってん影響えいきょうあたえたとされる植木枝盛うえきえもり(1857-92)の『民権自由論みんけんじゆうろん』(1879)や中江兆民なかえちょうみん(1847-1901)の『民約訳解みんやくやっかい』(1881、ルソー Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778、フランス啓蒙期けいもうき思想家しそうかの「社会契約論しゃかいけいやくろん」の抄訳しょうやく)などが刊行かんこうされた。

福沢諭吉ふくざわゆきち とく福沢諭吉ふくざわゆきちは『学問がくもんのすゝめ』で、「独立どくりつ気力きりょくなきものはくにおもふこと深切しんせつならず」というように、くにのためにも個人こじん独立どくりつすべきだとし、さらに列強れっきょうからも日本にほん独立どくりつまもらなければな

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らないと主張しゅちょうしている。主従関係しゅじゅうかんけいなど「依存いそん」の概念がいねんしゅとする東洋とうよう封建的愛国心ほうけんてきあいこくしん一線いっせんかくす「独立どくりつ」の重要性じゅうようせい強調きょうちょうするこのあたらしい近代的愛国心きんだいてきあいこくしん提唱ていしょうは、明治めいじ知識人ちしきじんたちにおおきな影響えいきょうあたえた。また、かつてこのましくないとされた金銭きんせん物質ぶっしつへの追求ついきゅうも、福沢諭吉ふくざわゆきちにあってはくにつよゆたかにするためのものとして正当化せいとうかされ、さらに板垣退助いたがきたいすけらによって資本主義しほんしゅぎ提唱ていしょうとして具体化ぐたいかされるにいたった。

ただし、福沢諭吉ふくざわゆきち自身じしんも『文明論之概略ぶんめいろんのがいりゃく』(1875)で、「くに独立どくりつ目的もくてきなり。いまわが文明ぶんめいこの目的もくてきたっするのすべなり」と言明げんめいしているように、このような西洋文明せいようぶんめい摂取せっしゅは、あくまでもくに独立どくりつをもたらす「富国強兵ふこくきょうへい」の手段しゅだんであった。その結果けっかとして、憲法けんぽう発布はっぷ(1889)や国会こっかい開設かいせつ(1890)がたしかに実現じつげんされ、同時どうじ資本主義しほんしゅぎによる産業さんぎょう発達はったつげられた。後述こうじゅつするように、対外的危機感たいがいてききかんからまれた日本にほん近代化きんだいかおのずから西欧せいおうのそのような内発的ないはつてきなものでなく、むしろ外発的がいはつてき性格せいかく多分たぶんびなければならなかった。

第二節だいにせつ 国家神道こっかしんとう成立せいりつ

(一)神道しんとう仏教ぶっきょう、キリストきょうとの対立たいりつ

神道国教化しんとうこっきょうか 武士政権ぶしせいけん終焉しゅうえんげるべく、維新政府いしんせいふ王政復古おうせいふっことなえ、「神武創業じんむそうぎょうはじめ」(記紀伝承ききじょう初代しょだい天皇てんのうとされる神武天皇じんむてんのう治世ちせい)への回帰かいき目指めざした。かみ子孫しそんとしての天皇てんのう親政しんせい強調きょうちょうすることによって、その神格化しんかくかはかるとともに、教政一致きょうせいいっち立場たちばから神社制度じんじゃせいどとおじて神社じんじゃ政府せいふ管理下かんりかいた。神道しんとうによって国民こくみん教化きょうかしようとして1870(明治めいじ3)ねん大教宣布だいきょうせんぷみことのりすことをはじめ、戊辰戦争ぼしんせんそう(1868〈慶応けいおう4/明治元めいじがんねんから翌年よくねんにかけておこなわれた、明治新政府側めいじしんせいふがわ旧幕府側きゅうばくふがわとのたたかい)の戦死者せんししゃまつ招魂社しょうこんしゃを1879(明治めいじ12)ねん靖国神社やすくにじんじゃあらためることや、天長節てんちょうせつ紀元節きげんせつ前者ぜんしゃ天皇誕生てんのうたんじょう祝日しゅくじつ後者こうしゃ神武天皇即位じんむてんのうそくい〈2がつ11にち〉の祝日しゅくじつ)をくに祝祭日しゅくさいじつさだめることなども、神道国教化しんとうこっきょうか確立かくりつさせるための一連いちれん政策せいさくであった。

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神仏分離しんぶつぶんり また、1868(明治元めいじがんねん神仏分離令しんぶつぶんりれいされたことによって、神社じんじゃ寺院じいんがともにまつられるという、従来じゅうらい神仏混淆しんぶつこんこう状況じょうきょう一変いっぺんした。神道しんとう国教こっきょうにする政策せいさく一環いっかんであったが、それまで仏教ぶっきょう僧侶そうりょ支配しはいされていた一部いちぶ神社じんじゃ神職しんしょくが「廃仏毀釈はいぶつきしゃく」の行動こうどうこし、てら仏像ぶつぞうなどを破壊はかいする、この運動うんどう全国ぜんこくひろまり、仏教界ぶっきょうかいおおきな打撃だげきけてしまった。

キリストきょう禁制きんせい撤廃てっぱい なお、江戸時代えどじだい以来の切支丹禁制きりしたんきんせいつづき、同年どうねんの「五榜ごぼう掲示けいじ」(五倫ごりんみちすすめることをはじめ、徒党ととう強訴ごうそ禁止きんしなどをしめしたいつつのふだ)にもキリスト教信仰きょうしんこう禁止きんし明記めいきされ、信者しんじゃへの弾圧だんあつつづいていたが、欧米諸国おうべいしょこくからはげしい抗議こうぎけた。このままでは不平等条約ふびょうどうじょうやく(1858ねん日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくをはじめとする、領事裁判権りょうじさいばんけん協定関税きょうていかんぜいなどをみとめる一連いちれん対外条約たいがいじょうやく)の改正かいせい交渉こうしょうにも支障ししょうしょうじると判断はんだんされ、そして、なによりも文明開化ぶんめいかいかともな西洋せいよう思想しそう流入りゅうにゅうはもはやけられなくなったので、ついに1873(明治めいじ6)ねん禁教令きんきょうれいかれ、信教しんきょう自由じゆうゆるされることとなった。

(二)国旗こっき国歌こっか

まる 明治政府めいじせいふ国家神道こっかしんとう確立かくりつさせるためにあらたに祝祭日しゅくさいじつさだめるとともに、そのにはまるかかげることも励行れいこうした。まる、すなわち日章旗にっしょうき文字通もじどお太陽たいようをかたどったものである。日本にほんのシンボルとされているのは、日本人にほんじん農耕民族のうこうみんぞくであることや、皇室こうしつ祖神そしんかみこと天照大神あまてらすおおみかみであることなどとかかわりがあるからである。

まるふるくから使つかわれてきたが、幕末ばくまつには外国船がいこくせん区別くべつをつけるために、島津斉彬しまつなりあきら(1809-58、幕末ばくまつ薩摩藩主さつまはんしゅ開国派かいこくは)のもうによって日本にほん商船しょうせんかかげられることとなった。そして、1870(明治めいじ3)ねん太政官布告だじょうかんふこくによって正式せいしき日本にほん船印ふなじるしさだめられ、国旗こっきとしての性格せいかくつようになった。しかし、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう国民こくみん意欲いよくたかめさせるシンボルとして使用しようされたので、いまではまる掲揚けいよう反対はんたいするひとすくなくない。

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君が代きみがよ 日本にほん国歌こっか君が代きみがよ」も薩摩藩さつまはん愛唱あいしょうされていたものであり、国内外こくないがい儀式ぎしきうたわれるうた必要ひつようだということから、明治政府めいじせいふ官僚かんりょう薩摩藩さつまはん出身しゅっしんものおおかったこともあって、歌詞かしとしてこれがえらばれた。もともとは『古今和歌集こきんわかしゅう』(醍醐天皇だいごてんのうめいけて紀貫之きのつらゆきらが十世紀じゅっせいきはじ撰進せんしんした、最初さいしょ勅撰和歌集ちょくせんわかしゅう)のまき所収しょしゅうの、

わがきみは 千代ちよ八千代やちよに さざれいし
       いわおとなりて こけのむすまで

という、相手あいて長寿ちょうじゅいわ短歌たんか字句じくれたものであった。ただ、初句しょくの「わがきみは」のわりに、平安時代へいあんじだい末期まっきうたわれるようになった、「君が代きみがよは」のほうを採用さいようした。そして、「きみ」という呼称こしょうも、たんなる二人称ににんしょうという本来ほんらい意味いみからはなれ、もっぱ天皇てんのうすものとなった。

1893(明治めいじ26)ねんからすでに国内外こくないがい儀式歌ぎしきかとして指定していされているが、実質的じっしつてき国歌こっかとしてあつかわれるようになったのは、1930年代ねんだいからであった。敗戦後はいせんごは、天皇てんのう賛美さんびする内容ないようであることを理由りゆうに、自粛じしゅくするうごきがあったが、1950(昭和しょうわ25)ねんには公式行事こうしきぎょうじ再登場さいとうじょうし、そののち国家こっか祭典さいてん学校がっこう式典しきてん祝祭日しゅくさいじつなどに国歌こっかとしてうたわれている。なお、法律ほうりつ正式せいしき日本にほん国歌こっかとしてさだめられたのは、国旗こっき法制化ほうせいかおなじく、つい最近さいきんの1999(平成へいせい11)ねんであった。

第三節だいさんせつ 明治前期めいじぜんき文学ぶんがく

(一)坪内逍遥つぼうちしょうよう以前

明治めいじ初期しょき文壇ぶんだんでは、仮名垣魯文かながきろぶん(1829-94)の『西洋道中膝栗毛せいようどうちゅうひざくりげ』(1870-75、十返舎一九じっぺんしゃいっくの『東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ』の主人公しゅじんこうまごがロンドンの万国博覧会ばんこくはくらんかいくというはなし)や『安愚楽鍋あぐらなべ』(1871-72、手法しゅほうでは式亭三馬しきていさんばの『浮世風呂うきよぶろ』『浮世床うきよどこ』にならったが、当時とうじ話題わだい牛鍋屋ぎゅうなべや舞台ぶたいとした)など、文明開化ぶんめいかいか世相せそう反映はんえいした作品さくひんかれたが、現実げんじつ

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滑稽こっけいなパロディーや言葉遊ことばあそびなどが特徴とくちょうで、内容ないよう文体ぶんたい江戸時代えどじだい戯作文学げさくぶんがくながれをくむものであった。

翻訳小説ほんやくしょうせつ政治小説せいじしょうせつ 明治めいじ十年代じゅうねんだいになると、自由民権運動じゆうみんけんうんどう隆盛りゅうせい背景はいけいに、翻訳小説ほんやくしょうせつ政治小説せいじしょうせつあらわれた。前者ぜんしゃには丹羽純一郎にわじゅんいちろう訳『花柳春話かりゅうしゅんわ』(1879-80、ブルワー・リットン〈Edward Bulwer-Lytton, 1803-73、イギリスの小説家しょうせつか政治家せいじか原作げんさく)や、川島忠之助かわしまただのすけ訳『八十日間世界一周はちじゅうにちかんせかいいっしゅう』(1879-81、ジュール・ヴェルヌ〈Jules Verne, 1828-1905、フランスの科学かがく冒険小説家ぼうけんしょうせつか原作げんさく)などがあり、立身出世りっしんしゅっせ夢見ゆめみ遠方えんぽうんでいこうとする当時とうじ青年せいねんたちに刺激しげきあたえた。政治小説せいじしょうせつでは矢野龍溪やのりゅうけいの『経国美談けいこくびだん』(1884-85、古代こだいギリシアの政治せいじ世界せかい舞台ぶたいとする)や、東海散士とうかいさんしの『佳人かじん奇遇きぐう』(1886-98、明治新政府めいじしんせいふ反抗はんこうしてほろぼされた会津藩あいずはん藩士はんし主人公しゅじんこうとする)などがげられる。西洋せいよう政治思想せいじしそう宣伝せんでん目的もくてきとした、「真面目まじめ」なものという意味いみで、近代小説きんだいしょうせつ端緒たんちょともえるが、文体ぶんたいかんしては漢文訓読体かんぶんくんどくたいもちいられた。

(二)写実主義しゃじつしゅぎ

坪内逍遥つぼうちしょうよう 理念りねんめんにおいて文学ぶんがく近代化きんだいか先駆的せんくてき役割やくわりたしたのは、坪内逍遥つぼうちしょうよう(1859-1935)の文学論ぶんがくろん小説神髄しょうせつしんずい』(1886-87)である。大学だいがくでシェークスピアなどの英文学えいぶんがくせっした逍遥しょうようは、従来じゅうらい勧善懲悪かんぜんちょうあく文学観ぶんがくかん否定ひていし、文学ぶんがく独立性どくりつせい強調きょうちょうするとともに、創作そうさく手法しゅほうとして「人情にんじょう」(人間にんげん心理しんり)や「世態風俗せたいふうぞく」(現実げんじつの「模写もしゃ」)、すなわち写実主義しゃじつしゅぎとなえた。たとえば、近世小説きんせいしょうせつ代表作だいひょうさくである『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』の主人公しゅじんこうたちは、「仁義八行じんぎはっこう化物ばけものにて、けっして人間にんげんとはいひがたかり」と批判ひはんされている。ただし、逍遥しょうよう理論りろん文学ぶんがく近代化きんだいかという外部がいぶ要請ようせいこたえたものであっても、かならずしも戯作文学げさくぶんがく愛好者あいこうしゃであるかれ内発的ないはつてき要求ようきゅうからるものではなかった。

このような矛盾むじゅん日本にほん各分野かくぶんや近代化きんだいか共通きょうつうするおおきな課題かだいであった。逍遥しょうよう自身じしんがその理論りろん実践じっせんしようとしていた『当世書生とうせしょせい

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気質かたぎ』(1886-87)も、人間にんげん内面ないめん十分じゅうぶんかれておらず、また文体ぶんたいにおいても会話かいわには口語体こうごたい利用りようこころみられたものの、ぶんには七五調しちごうちょう的なものがのこっており、戯作性げさくせいびた失敗作しっぱいさくとされている。

二葉亭四迷ふたばていしめい 写実主義しゃじつしゅぎ最初さいしょ成功作せいこうさく二葉亭四迷ふたばていしめい(1864-1909)の『浮雲うきぐも』(1888-90)である。すでに文学論ぶんがくろん小説総論しょうせつそうろん』(1887)で「虚相きょそう」、すなわちえない内面ないめん必要性ひつようせいいた四迷しめいは、『浮雲うきぐも』でふる儒教じゅきょう倫理りんりあたらしい西洋せいよう思想しそうとの板挟みいたばさみなや主人公しゅじんこう内面ないめんをリアルにしている。文体ぶんたいにおいても「だ」調ちょう言文一致体げんぶんいっちたいとなっている。

(三)言文一致運動げんぶんいっちうんどう

実用性じつようせい推進すいしん目的もくてきとした言葉ことば改良かいりょううごきも文学ぶんがく近代化きんだいかおおきな影響えいきょうあたえた。はやくも三遊亭円朝さんゆうていえんちょう(1839-1900)の落語らくご怪談牡丹燈籠かいだんぼたんとうろう』(1885)の速記本そっきぼんに、口語体こうごたいによる記録方法きろくほうほうこころみられており、速記者そっきしゃ若林珊蔵わかばやしかんぞう(1857-1938)も序文じょぶんで「我国わがくに言語げんご上に改良かいりょうくわへ」ようとする、文体改良ぶんたいかいりょう意図いと表明ひょうめいしている。小説しょうせつにおける言文一致体げんぶんいっちたいはやれいは、『浮雲うきぐも』のほかに山田美妙やまだびみょう(1868-1910)の『夏木立』(1889)があり、「です」調ちょうとなっている。ややおくれて、当初とうしょ言文一致体げんぶんいっちたい批判的ひはんてきだった尾崎紅葉おざきこうよう(1867-1903)も「である」調ちょうで『多情多恨』(1897)をいた。また、若松賎子わかまつしずこ(1864-96)やくの『小公子しょうこうし』(1891-93、フランシス・イライザ・バーネット〈Frances Eliza Burnett, 1849-1924、アメリカの女性作家じょせいさっか原作げんさく)の「ました」調ちょう名訳めいやくとしてられている。

(四)擬古典主義ぎこてんしゅぎ

逍遥しょうよう理論りろん提出ていしゅつされると同時どうじに、1886(明治めいじ18)ねん結成けっせいされた硯友社けんゆうしゃ同人どうじんたちによって、元禄時代げんろくじだい井原西鶴いはらさいかく再評価さいひょうかされ、古典復興こてんふっこう機運きうんこった。古典こてん緊密きんみつ連続性れんぞくせいたもっているかれらは、写実主義しゃじつしゅぎというあたらしい文学ぶんがく方法ほうほう示唆しさけながら、その理念りねんのモ

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デルとして西鶴さいかくのリアルな文体ぶんたい手法しゅほうれた。尾崎紅葉おざきこうようの『二人比丘尼色懺悔にんびくにいろざんげ』(1890)や幸田露伴こうだろはん(1867-1947)の『風流仏ふうりゅうぶつ』(1890)などがそうである。ただし、紅葉こうよう文章表現ぶんしょうひょうげん技巧ぎこうとおして写実しゃじつ実践じっせんしようとする傾向けいこうがあり、人情にんじょうかんしては表面的ひょうめんてきにしかうつしていなかった。なにをどのようにくかが問題もんだいである近代的きんだいてき写実主義しゃじつしゅぎと、くための手段しゅだんである文章ぶんしょう技法ぎほう主題しゅだいとする前近代ぜんきんだいの「写実しゃじつ」との相違そういりにされた事例じれいえよう。

一方いっぽう露伴ろはんつづき『五重塔ごじゅうのとう』(1892-93)などを発表はっぴょうし、精神せいしんやしな東洋とうよう世界観せかいかんしめすことで近代西洋きんだいせいよう物質文明ぶっしつぶんめい対抗たいこうつづけた。反近代はんきんだい代表的だいひょうてき作家さっか一人ひとりかぞえられる。

第四節だいよんせつ 芸術げいじゅつ復興ふっこう

(一)明治期めいじき美術びじゅつ

日本にほんにおける近代美術きんだいびじゅつ展開てんかい西洋文化せいようぶんか刺激しげきうところがあり、江戸後期えどこうき洋画家ようがか司馬江漢しばこうかん(1747-1818)らの西洋志向せいようしこう継承けいしょうしたものが当初とうしょすくなくなかったが、明治初年めいじしょねん万国博覧会ばんこくはくらんかい出展しゅってんした日本にほん工芸品こうげいひん意外いがい好評こうひょうはくしたため、伝統美術でんとうびじゅつ奨励しょうれい明治政府めいじせいふ主要しゅよう政策せいさく一環いっかんとなった。

岡倉天心おかくらてんしん とく東京大学とうきょうだいがく講師こうしとして来日らいにちしていたアメリカの学者がくしゃフェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853-1908)とその助手じょしゅつとめた岡倉天心おかくらてんしん(1862-1913)らによって、狩野派かのうは水墨画すいぼくがられる日本画にほんが家系かけい狩野正信かのうまさのぶ(1434-1530)を始祖しそとし、中世後期ちゅうせいこうきから近世きんせいにかけて武家ぶけささえをさかえた)をじくとした新日本画しんにほんが創作そうさく運動うんどうはじまった。狩野芳崖かのうほうがい(1828-88)が「悲母観音ひぼかんのん」をいて狩野派かのうは復興ふっこうつとめ、橋本雅邦はしもとまさくに(1835-1908)も「竜虎図りゅうこず

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注目ちゅうもくびた。1890(明治めいじ22)年に日本美術学校にほんびじゅつがっこうげん東京芸術大学美術学部とうきょうげいじゅつだいがくびじゅつがくぶ前身ぜんしん)が設立せつりつされ、天心てんしん校長こうちょう就任しゅうにんした。

やがて反対派はんたいは対立たいりつして校長こうちょうしょくした天心てんしんは、1898(明治めいじ31)年に東京美術院とうきょうびじゅついん創立そうりつし、横山大観よこやまたいかん(1868-1958)や菱田春草ひしだしゅんそう(1874-1911)などをそだてた。日本にほん美術教育びじゅつきょういくちからくすかたわら、天心てんしん日本にほん保有ほゆうする東洋とうよう伝統でんとう世界せかいつたえようとした。くわしくは後述こうじゅつするが、英文えいぶん執筆しっぴつされた『東洋とうよう理想りそう』(1903)や『ちゃほん』(1906)などにその思想しそう凝縮ぎょうしゅくされている。

黒田清輝くろだせいき 洋画ようがかんしては、1889(明治めいじ22)年に浅井忠あさいちゅう(1856-1907)らは明治美術会めいじびじゅつかい組織そしきし、くら色調しきちょう多用たようしていたが、フランスから帰国きこくした黒田清輝くろだせいき(1866-1924)によって、1896(どう29)年に白馬会はくばかい創立そうりつされ、外光主義がいこうしゅぎ(pleinairisme, 19世紀せいきのフランスの画派がはで、あかるい外光がいこう効果こうか重視じゅうしする戸外こがい制作せいさく特徴とくちょうてき作風さくふう洋画ようが主流しゅりゅうとなった。夫人ふじんをモデルにえがいた「湖畔こはん」がその代表作だいひょうさくである。

一方いっぽう浅井忠あさいちゅう門下もんか満谷国四郎みちたにくにしろう(1874-1936)らは太平洋画会たいへいようがかい(1902)を結成けっせいして白馬会はくばかい対抗たいこうし、浅井忠あさいちゅう関西美術院かんさいびじゅついん(1906)をひらいて安井曾太郎やすいそうたろう(1888-1955)らをそだてた。

(二)音楽教育おんがくきょういく

1872(明治めいじ5)年に発布はっぷされた学制がくせいなかにすでに「唱歌しょうか」がはいっていたが、教員きょういん教材きょうざいととのっていなかった。新鋭しんえい教育きょういく研究者けんきゅうしゃ伊沢修二いざわしゅうじ(1851-1917)が幼稚園ようちえん唱歌しょうかゲームによる教育きょういくこころみ、1875(明治めいじ8)年に文部省もんぶしょう報告書ほうこくしょ提出ていしゅつした。そのなかに「ちょうちょうちょうちょ/にとまれ」ではじまる「胡蝶こちょう」などの唱歌しょうか紹介しょうかいされている。旋律せんりつしるされていないが、歌詞かし各地かくち童歌わらべうたれたもので、また、ゲームをとおして科学かがくなどの知識ちしき習得しゅうとくができたということも付言ふげんされている。

小学唱歌集しょうがくしょうかしゅう その伊沢いざわはアメリカに派遣はけんされ、西洋せいよう唱歌しょうか旋律せんりつ日本にほん童歌わらべうたうたうことが可能かのうだということを

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発見はっけんした。帰国後きこくご日本にほん初の音楽おんがく教科書きょうかしょ小学唱歌集しょうがくしょうかしゅう初編しょへん(1883)をんで、「ちょうちょう」の歌詞かしに「ボートのうた」の旋律せんりつ(「ソミミファレレ」ではじまり、中国語ちゅうごくごの「小蜜蜂しょうみつばち」もこのうた旋律せんりつ採用さいよう)をてるとともに、二番にばん歌詞かし「起きよ起きよ/ねぐらのすずめ朝日あさひひかりの/さきこぬさきに……」をくわえた。この唱歌しょうか教育意図きょういくいとについては伊沢いざわは、蝶のように自由じゆうあそべる子供こどもたちに「国恩こくおんふか」さをかんじさせ、また、雀のようにはやきて学業がくぎょうはげませるところにあるとべている。唱歌しょうかによって音楽おんがくたのしむものでなく、実用的じつようてきなものをたたみ、さらに愛国思想あいこくしそうえつけるのが、近代きんだい音楽教育おんがくきょういく目的もくてきであった。

 『小学唱歌集しょうがくしょうかしゅう』のあと刊行かんこうされた『小学唱歌しょうがくしょうか』や『尋常小学唱歌じんじょうしょうがくしょうか』などでは、日本人にほんじん作曲さっきょく作詞さくし唱歌しょうか全体ぜんたいめるようになり、音楽教育おんがくきょういくひろ全国ぜんこく普及ふきゅうしていった。一方いっぽう、1887(明治めいじ19)年の東京音楽学校とうきょうおんがくがっこう設立せつりつによって、専門的せんもんてき音楽教育おんがくきょういくはじまり、「荒城こうじょうつき」や「はな」などの名曲めいきょくられる滝廉太郎たきれんたろう(1879-1903)をはじめとする日本にほん作曲家さっきょくかあらわれるようになった。

文責ぶんせき:黄智暉)

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確認してみよう

一、つぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

  1. 福沢諭吉ふくざわゆきちは、(a.『文明論之概略ぶんめいろんのがいりゃく』 b.『学問がくもんのすゝめ』 c.『脱亜論だつあろん』)で「てんひとうえひとつくらず」といた。
  2. 日本にほん国歌こっかきみ」はもともと(a.『万葉集まんようしゅう』 b.『古今和歌集こきんわかしゅう』 c.『新古今和歌集しんこきんわかしゅう』)所収しょしゅう短歌たんか字句じくれたものであった。
  3. 写実主義しゃじつしゅぎ最初さいしょ成功作せいこうさくは(a. 尾崎紅葉おざきこうよう b. 幸田露伴こうだろはん c. 二葉亭四迷ふたばていしめい)の『浮雲うきぐも』である。
  4. 硯友社けんゆうしゃ同人どうじんたちによって、元禄げんろく時代じだいの(a. 井原西鶴いはらさいかく b. 松尾芭蕉まつおばしょう c. 近松門左衛門ちかまつもんざえもん)が再評価さいひょうかされ、古典復興こてんふっこう機運きうんこった。
  5. 東京音楽学校とうきょうおんがくがっこう設立せつりつによって専門的せんもんてき音楽教育おんがくきょういくはじまり、「荒城こうじょうつき」などの名曲めいきょくられる(a. 伊沢修二いざわしゅうじ c. 滝廉太郎たきれんたろう c. 岡倉天心おかくらてんしん)をはじめとする日本にほん作曲家さっきょくかあらわれた。

二、つぎ文章ぶんしょうみ、空欄くうらん適切てきせつ言葉ことばれなさい。

  1. 西洋せいよう文化ぶんかれながら日本にほんこころつづける心構こころがまええを(  )という。
  2. 明治政府めいじせいふ戊辰戦争ぼしんせんそう戦死者せんししゃまつ招魂社しょうこんしゃを1879(明治めいじ12)年に(  )にあらためた。
  3. まる日本にほんのシンボルとされているのは、皇室こうしつ祖神そしんかみこと(  )であることとかかわりがあるからである。
  4. 理念りねんめんにおいて文学ぶんがく近代化きんだいか先駆せんく的な役割やくわりたしたのは、坪内逍遥つぼうちしょうよう文学論ぶんがくろん(  )である。
  5. フランスから帰国きこくした(  )によって、1896年に白馬会はくばかい創立そうりつされ、外光主義がいこうしゅぎ的な作風さくふう洋画ようが主流しゅりゅうとなった。

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三、つぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

  1. 文明開化ぶんめいかいか過程かていにおいて西洋せいようの「私欲しよく」がどのように解放かいほうされたのか、説明せつめいしなさい。
  2. 東洋とうよう封建的ほうけんてき愛国心あいこくしん西洋せいよう近代的きんだいてき愛国心あいこくしんとを比較ひかくしなさい。
  3. 神道国教化しんとうこっきょうかのための明治政府めいじせいふ政策せいさくを三つげなさい。
  4. 言文一致体げんぶんいっちたい小説しょうせつを三つげたうえで、それぞれの文体ぶんたいしめしなさい。
  5. 明治期めいじき音楽教育おんがくきょういくなに目的もくてきとしていたのか、れいげて説明せつめいしなさい。

参考文献さんこうぶんけん

日本史研究会編『講座日本文化史』、三一書房、1971年
石田一良編『日本文化史概論』、吉川弘文館、1978年
久保田淳編『日本文学史』、おうふう、1997年
五味文彦ほか編『詳説日本史研究』、山川出版社、1998年
中澤伸弘『図解雑学日本の文化』、ナツメ社、2002年
小森陽一ほか編『近代日本の文化史』、岩波書店、2002年
大久保善哉『日本文化論の系譜』、中央公論新社、2003年
岸俊男ほか編『週刊朝日百科日本の歴史』、朝日新聞社、2004年
遠藤嘉基、池垣武郎『注解日本文学史』、中央図書、2005年

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